2007年12月16日

日本の防衛

 世界中で日本人ほど、平和ぼけしている国民はいない。何故そうなってしまったのか。
 第2次世界大戦後、日本の復讐を恐れた連合国によって非武装を宣言する憲法第9条を押し付けられ、それを今にいたるも金科玉条としてきたからだ。

 そうは言っても、武装中立したくても、武装中立などできる国際情勢ではない。日本を取り巻く中国・ロシア・将来統一した場合の統一朝鮮・アメリカなど、どの一カ国たりとも現在の自衛隊の力ではとても敵わないと思われる。

 国連が中国やロシアと、アメリカやヨーロッパ諸国との対立などから、機能不全に陥っている以上、日本の取り得る選択肢としては、日米同盟によってアメリカにおんぶに抱っこして貰いながら、中国やロシアとの経済協力を通じて、軍事的対立にならないように、外交努力を積み重ねて行くしかないだろう。

 しかしながら、中国でもロシアでも日本に攻め込んできた時には、1939年11月30日、超大国ソ連が弱小国フィンランドに突如攻め込んで来た「冬戦争」の時、フィンランド国民の見せた不屈の精神を見習って、いざという時は戦える準備だけは、怠り無くする必要はある。

 フィンランドの銃保有率は、世界第3位だと言う。いつ何時ロシアが再び攻め込んでくるか分からないし、第2次世界大戦で失ったカレリア地峡からラドガ湖周辺などを将来取り戻したいと言う気持ちもあるかも知れない。

 日本の北方領土問題にちょっと似ているけれども、フィンランドの場合はロシアと地続きだから、その脅威は全然違うと思う。

(参考図書)
posted by サンシャイン at 14:53| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年04月17日

目次

 世界史
(1)アメリカ史
 アメリカ独立戦争1南北戦争・黒人連隊2
 奴隷解放の予備宣言北軍勝利
(2)フランス
 フランス革命1ロシア遠征
 ライプテイヒの戦いタレーラン
(3)ロシア史
 タタールのくびき
 ロシア革命1ロマノフ朝崩壊3
(4)ドイツ史
 ナチスの台頭ユダヤ財閥
 プロイセン軍再建プロイセンの反撃
 第2次世界大戦2バルバロッサ作戦2
 独ソ戦2V2ミサイル5
 第1次世界大戦1神聖ローマ帝国3
(5)ラテンアメリカ史
 コロンブスインカ帝国5
(6)朝鮮史
 豊臣秀吉の明征服豊臣秀吉の朝鮮侵略
 
豊臣秀吉の野望文禄の役10
 
朝鮮戦争勃発釜山橋頭堡
 仁川上陸作戦中国の参戦6
 文禄の役11文禄の役15
 慶長の役1慶長の役7
 
 日本史
 歴史の転換負けて勝つ
 天皇制の起源
 坂本竜馬薩英戦争3
 4国連合艦隊幕府の敗因
 日露戦争日露戦争の影響
 中国国内の分裂第2次世界大戦1
 国力の差ミッドウエイ海戦5
 黒田如水島津義弘
 ソ連内戦シベリア出兵7
 奉天会戦有坂銃
 太平洋戦争敗戦の原因太平洋戦争5
 インパール作戦太平洋戦争敗戦の理由

 世界を支配する者
 太平洋戦争6世界を支配する者4
 世界を支配する者5J・P・モルガン

 文学史
 カフカカフカ11

 青春時代
 高校入試まで社会保険労務士2

 日本経済の課題その他
 日本経済の課題
 日本経済の課題2幸福とは
 国家破産J・P・モルガン
 
 
posted by サンシャイン at 12:37| 目次 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年04月14日

太平洋戦争敗戦の理由

 太平洋戦争敗戦の理由としては、(1)根本的にはアメリカと日本との国力の桁違いの差ということになるだろう。

 開戦直前の太平洋地域における日米の軍事力では、互角に近いものがあったかもしれないが、経済力は桁違いだったから、戦争突入後の兵器の生産能力を考えれば、赤子と大人の戦いだった。

 もう一つの大きな理由として、(2)当時の日本の指導者の世界情勢を見る目の欠如ということだろう。

 日本が太平洋戦争に突入した1941年12月初めには、頼みの綱の同盟国ドイツ軍はモスクワの手前で進撃をストップし、ジューコフ指揮のモスクワ防衛ソ連軍の反撃で、以後ベルリンまで後退する分岐点にいた。

 ドイツ軍の、ソ連を除くヨーロッパ大陸制覇を見て、東南アジアの資源地帯に植民地を持つイギリス・オランダ軍など、軍事的には問題にならない程弱体化していると考え、太平洋戦争を決断したわけだが、その肝心のドイツ軍は、1941年12月には敗勢に陥りつつあった。

 しかし当時の日本の情報能力では、そこまでドイツ軍が危なくなっているということは掌握できず、無謀な対米戦争に踏み切ってしまった。


(参考図書)
posted by サンシャイン at 12:10| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年04月08日

チャンドラ・ボース5

 日本に到着したチャンドラ・ボースは、日本の独裁者東條英機首相に会って、インド独立への熱い思いを伝えたいと思った。

 ガダルカナル島からの奇跡的撤退やキスカ島からの奇跡的撤退の成功などもあったが、昭和18年には、もはや戦局の帰趨は明らかで、後はいかにうまく停戦交渉にこぎつけられるか位しか望みは残っていなかった。

 更にこうした事態に追い討ちをかけたのが、山本五十六連合艦隊司令長官の乗った一式陸上攻撃機が4月18日、ラバウルからブインに向かう途中のブーゲンビル島上空で、暗号を解読して待ち構えていた米軍戦闘機Pー38に撃墜されて戦死した事だった。

 山本長官の死は、独裁者東條英機首相の双肩に、更に重く日本の将来がのしかかってきた。

 そんな時期に希望の灯を一筋ともしてくれそうな人物が、東條首相の前に現れてきた。チャンドラ・ボースである。

 東南アジアの独立のみならず、インドまで独立となればイギリス軍の主力を占めるインド兵が日本側につく訳で、戦局が一変するほどの影響も考えられる。


DHCオンラインショップ 
posted by サンシャイン at 08:42| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年04月06日

インドネシア独立

 日本が第2次世界大戦における、東南アジアからインド迄の植民地解放者だった点において、一番の成功例は、インドネシア独立におけるものだった。

 16世紀のスペインとポルトガルによる、全世界植民地化の動きは、19世紀になると、東南アジアにおいては、イギリスとオランダによる植民地分割に取って代わっていた。

 1824年、イギリスはマレー半島以北を支配し、オランダはインドネシアを支配すると言う協定を結んで、これらの地域を武力征服した。

 1904年オランダは、最後まで抵抗していたアチェ侯国を最終的に降伏させ、ここにインドネシア全域の支配が完成した。

 インドネシア人の期待は、ちょうどこの1904年から1905年にかけて起こった日露戦争で、バルチック艦隊を壊滅させてロシアに勝った日本に寄せられることになった。

 その日本が1941年12月4日から東南アジアに向けて、海南島から輸送船を出航させて、始まった太平洋戦争の緒戦では、破竹の勢いでシンガポールも陥落させ、インドネシア人の期待はいやがうえにも高まった。

 インド国民軍創設にも関わった藤原機関は、1941年9月18日、タイのバンコクで結成されていたが、1942年2月15日シンガポール陥落後は、インドネシアに向けて、以下の内容のラジオ放送を行い、日本軍のインドネシア進撃の地ならしをした。

 「日本は東亜の人々を白人の植民地支配から解放するために南進を始めた。次はインドネシアへ進攻するから住民は協力せよ」

 これを聞いたインドネシア人は大喜びで、スマトラ島の反蘭民衆団体プサ党の指導者アブバカルは、弟と共に小船で藤原機関のいたペナン島に渡り、藤原岩市少佐の指示を仰いだ。


(参考図書)
posted by サンシャイン at 14:01| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年04月04日

植民地解放戦争

 日本の意図はともかく、結果としては、太平洋戦争は一面では、東南アジア各国及びインドの独立に寄与した植民地解放戦争だった。

 第2次世界大戦前は、インドから東南アジアまでのほとんどの国はイギリス・オランダなど欧米の植民地で、富は簒奪(さんだつ)され隷属状態にあったが、第2次世界大戦後はほとんど全て独立することができた。

 これは日本軍の進撃に伴い、白人に対する劣等感が消えて、独立心に芽生えたことと、日本軍の指導と援助により独立のための義勇軍が作られて、日本の敗戦後、これらの独立軍が、戻って来た欧米の占領軍を打ち破ったり(インドネシア)、植民地を維持する気を失わせた(インド)からである。

 植民地解放戦争と言う側面から言うと、悪いのは欧米の方で、日本軍はむしろ植民地からの解放を助けた正義の使者と言えなくもない。

 現在の世界でも白人の方が優れているような風潮があるが、アメリカ・NATO・ロシアの強大な軍事力が世界を圧倒しているのであって、白人だから優れているとは言えないだろう。

 インド人の優秀なIT技術者とか、勿論日本人の優秀さ、中国の最近の急速な経済・技術の発展具合などを考えると、アジア人が近い将来白人に肩を並べる日も近そうだ。


(参考図書)
posted by サンシャイン at 12:49| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年04月01日

山県有朋5

 太平洋戦争の一番の責任者と言えば、開戦当時の首相兼陸軍大臣にしてその後参謀総長も兼ねた東條英機首相と言うことになる。

 しかしながら、1941年当時の世界状況を考えると、「誰が日本の首相をやっていたとしても、米英蘭などとの戦争に踏みきらざらるを得なかった」と思われる。

 そこまで日本を増長させて、朝鮮半島から更に中国大陸に進出していった首謀者は、明治維新後の日本陸軍の独裁者、山県有朋をおいて他にはいない。

 東條英機その他の太平洋戦争後、戦犯で処刑された人々は山県有朋の敷いたレールの上を走っていっただけだった。

 日露戦争後ロシアの脅威に対抗するために、山県有朋は明治40年4月、「帝国国防方針」を作り天皇の裁可を得た。その内容はその後の太平洋戦争に続く日本の行く末をまさに指し示していた。

 (1)陸軍はロシア、海軍はアメリカを仮想敵国とする。
 (2)国防所要兵力は陸軍平時25個師団、戦時50個師団、海軍は50万トンとする。
 (3)対米作戦は海軍、対露作戦は陸海軍の共同作戦とする。

 明治40年と言えば、まだ日英同盟が結ばれていた時代に、また日露戦争後のポーツマス条約でアメリカの尽力で講和条約が結ばれたと言うのに、山県有朋は既にアメリカを仮想敵国と見なしていた。


マウスコンピューター/G-Tune
posted by サンシャイン at 12:55| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年03月30日

チャンドラ・ボース4

 ベルリンに亡命中のチャンドラ・ボースは、1941年12月8日からの東南アジアへの日本軍の破竹の進撃により、ビルマ迄占領するや、ドイツを見限った。そして日本軍に大きな期待を掛けるようになった。

 ボースは大島ドイツ大使に会って、日本行きの希望を述べ、日本のヒトラーとも言える、東條英機首相に面会してインド武力解放の援助を頼みたいと思った。

 日本側も、インド国民軍創設者でインド国民軍内に絶大な影響力のあるモハンシン将軍の解任以後、日本に対する不信感の芽生えていたインド国民軍及びインド独立連盟をなだめるために適当なリーダーを捜していた。

 元インド国民会議派議長のチャンドラ・ボースは、そうした日本側の要求にぴったりの人物だった。

 1943年4月26日午後、日本側の「伊号第29」潜水艦はボースを乗せたドイツ潜水艦を迎えるため、アフリカ大陸のモザンビークとマダガスカル島との間にあるモザンビーク海峡に到着した。

 翌4月27日未明、ドイツ潜水艦も現場海域に到着したものの、インド洋の波高く、両艦の接近は困難だった。

 4月28日朝、ドイツ潜水艦の帰港のための燃料切れの前日、ドイツ軍の士官と信号兵が決死の覚悟で海に飛び込んで、日本の潜水艦に泳ぎ着いた。

 両艦の打ち合わせが行われ、ボースと同行者のアビッド・ハッサンは、両艦の間に張った麻綱をたどりながら、ゴムボートで日本の潜水艦に乗り込むことができた。


(参考図書)
posted by サンシャイン at 15:12| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年03月27日

超格差社会インド

 インドと言えば、カースト制度と密接に結びついた世界にも例を見ない程の超格差社会であるが、このカースト制度は歴史上いつ頃からインドに現れてきたのであろうか。

 紀元前1500年頃、アーリヤ人が中央アジアからインドに侵入し、馬に引かせる戦車を使って、先住農耕民族を征服したが、その後のインド支配の過程で、カースト制度を完成させていった。

 その構成は最上位から
(1)バラモン
 僧侶・司祭などの宗教関係者
(2)クシャトリア
 貴族・豪族・軍人などの政治家や軍人
(3)ヴァイシャ
 商人・工業従事者などの庶民
(4)シュードラ
 人々の嫌がる職業に従事する奴隷
 となっているが、この階級は職業別に2,000〜3,000にも分かれていて、人は生まれながらに差別されて、親の職業以外に就くことはできない。

 更にカースト制度は結婚の際には、花嫁の方で高額の持参金を積めば実家よりカーストの上の花婿と結婚できる、ダウリー制度によって、自殺や犯罪まで引き起こされている。

 高額の持参金を持ってこなかっ花嫁が、いじめにあって自殺したり、持参金の少なさに怒った姑が、花嫁を殺してしまったりといった事件が後を絶たない。

 これまでも農業についてはカーストの壁が無くて自由に誰でも、農業をする事ができたが、現在では農業に変わって、IT産業がインドのカースト打破の起爆剤になろうとしている。

 何故かと言えば、IT産業に就くのはカーストに関係なく、優秀であれば誰でもできるので、優秀なインド人は皆IT技術者を目指して、猛勉強することになる。

 これが世界中の企業にIT技術者を大量に供給している、インドのIT教育の盛んな理由となっている。又イギリスの植民地時代が長かったため英語が得意と言うのも、世界中に受け入れられやすい理由である。


(参考図書)


 
posted by サンシャイン at 14:43| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年03月24日

チャンドラ・ボース3

 ドイツに入ったチャンドラ・ボースは、ヨーロッパ・北アフリカでドイツ軍などに投降してきたイギリス軍のインド兵や、ヨーロッパ在住のインド人志願兵を集めて、約10,000名のインド軍団を組織した。

 このインド軍団をボースがどのように使おうとしていたのかは不明だが、「アフガニスタンからインド目指して進攻させようとしていた」ことも考えられる。

 しかしヒトラーはインドの独立運動には熱心でなく、第2次世界大戦の終わるまでインド軍団が活躍することは無かった。

 但しインド軍団があったために、捕虜となった連合軍の(インド軍団に参加しない)インド兵士が強制労働につくことはなかった。

 又ドイツ敗戦後、インド軍団に参加していたインド兵が連合軍の捕虜となることもなく、インドに帰ることができた。

 太平洋戦争でも同様に、日本軍の捕虜となったイギリス軍のインド兵はインド国民軍に参加すれば捕虜の扱いを受ける恐れはなかった。

 第2次大戦後、一時インド国民軍の最高幹部の内から、3人だけを戦犯としてイギリスが裁判にかけたが、インド国内の反対運動から、インド独立への流れを作るきっかけとなってしまった。

 そのため裁判どころではなくなり、イギリスのインド駐留総司令官オーヒンレック元帥は、1946年1月3日、次のような発表を行って、3人を釈放した。

 「被告3名を無期流刑に処すという軍事法廷の判決は正当なりと認めるも、インド政府の方針にもとづき、総司令官の権限において刑の執行を停止する」

 釈放されたセイガル中佐・カーン大佐・デイロン大佐の3名は、「愛国者」「インド独立の英雄」として、インド国中を回って、インド独立を呼びかけた。



posted by サンシャイン at 15:35| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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